歴史は語る

東京大学120周年特集(3)

三四郎池(育徳園心字池)

 本郷キャンパスの三大名所といえば、「安田講堂」、「赤門」、そして「三四郎池」が挙げられる。三四郎池の正式名称は、「育徳園心字池」。山手台地を浸食した谷に湧出する泉である。

 この池は、江戸時代は加賀藩邸の庭園の一部だったが、明治に入って東京帝大に移管され、後に夏目漱石(一八六七−一九一六)の小説『三四郎』にちなんで、「三四郎池」と呼ばれるようになった。

育徳園は江戸で第一の名園

 加賀藩は、天正九年(一五八一)八月、織田信長が藩祖、前田利家(としいえ)に能登一国を与えたことに始まる。現在の赤門から池にかけての一帯の地は、大坂の役後に将軍家から賜ったもので、この屋敷は、明治維新後に大部分が新政府の官有地に転ぜられるまで存在していた。

 育徳園は、寛永十五年(一六三八)、豪奢で風雅を好んだという四代目藩主、前田利常の時に大築造されたという。彼の死後、前田綱紀(つなのり)が加賀藩の五代目藩主だった時にさらに補修された。当時は江戸諸藩邸の庭園中、第一の名園とうたわれた。園中に八景、八境の勝があって、その泉水・築山・小亭等は数奇を極めたものだと言われている。池の形が「心」という文字をかたどっており、「育徳園心字池」という。

 だが、この屋敷は安政二年(一八五五)の大地震で大損害を被り、明治元年(一八六八)四月の火事で大部分の建物が類焼して、無残な姿になってしまう。明治七年に東京医学校(本学医学部の前身)へ移転される直前の敷地は、「荒漠タル原野」と化していたという。

 だが、度重なる災害の中でも、育徳園の池と樹木は残存していた。現本郷キャンパスの建物の配置は、この旧加賀藩邸の敷地の配置に大きく影響されている。育徳園の池は現在の三四郎池であり、その東に広がる馬場は明治三十二年頃拡張されて現在の運動場となった。育徳園と馬場の保存は、おのずからこれらの北と東を限る道の保存につながり、これらがキャンパスの敷地の骨組みとなったのである。

三四郎が訪ねた三四郎池

 さて、三四郎池という名称は、夏目漱石の長編小説「三四郎」から付けられたことは冒頭で述べたが、この小説は、明治四十一年(一九〇八)九月一日より同十二月二十九日まで、東京・大阪の両朝日新聞に同時に連載された。初版本は、明治四十二年五月に発行されている。

 熊本の高等学校を卒業した小川三四郎が、文科大学に入学のため上京するところからこの小説は始まっており、三四郎は東京で「偉大なる暗闇」と評される広田先生から思想や学問の深さを教えられ、勝ち気で美しい里見美禰子(みねこ)から青春のきらびやかな世界に誘われる。文科大学の四季を背景に多感な青春の哀感と、その「迷へる羊」に似た危うさを描いた作品で、日本の近代文学にまれな青春小説として、多くの読者を集めている。

 この小説のはじめの方で、上京してきた三四郎が、東大の知り合いを訪ねていくシーンがある。そして、大学校内の池のほとりに座り、思索にふける。

 「三四郎は左りの森の中へ這入った。其森も同じ夕日を半分脊中に受けてゐる。…三四郎は池の傍へ來てしゃがんだ」

 ここに登場する池こそが、三四郎池なのである。  周りを森に囲まれた三四郎池は、現在でも学生の憩いの場となっている。

参考文献:東京大学百年史、東京大学本郷キャンパスの百年


淡青手帳

 映画『エビータ』を見た。貧困のどん底からアルゼンチンの大統領夫人にまでのぼりつめた、実在の女性エバ・ペロンの生涯を描いた作品だ

エバのその凄じい行動力の原動力となっていたのが幼少の頃の一つの体験だった。私生児として生まれたエバは実父の葬儀から追い出されてしまう。その時の屈辱感と悲しみがエバを栄光への果てしない欲望へと駆り立てる。美貌を武器に多くの男性を翻弄しながら、ついに二十六歳という若さでトップ・レディの地位にまでのぼりつめた。しかし、その地位と名誉と人々の賛美も結局エバの心を満たし切ることはできなかった

果てしなく愛を求め続け、強く激しく生き続けるエバ。しかし死を直前にした時初めてエバは弱さを見せる。自分の手にしてきたものすべてが結局ははかなく消え去ってしまうということを知ったのだ。最後にエバが誇ることができたのは“How I Lived(私は生きた)”という事実だけだった。そして三十三歳という若さでエバはこの世を去る

このエバの生涯は不思議とイエスと一致する点が多い。イエスも私生児として生まれ寂しい幼少時代を過ごし、同じ三十三歳でこの世を去った。そして死後聖人として世界中の人々に崇められるようになった。しかし、イエスがエバと異なるのは、エバが常に愛を求め続けたのに対し、イエスは最後まで愛を与え続けようとしたことだ

“You must love me(私を愛して)”が死を前にしたエバの言葉だった。すべてを手に入れ多くの人々からの愛を得てきたエバが悟るべきだったことは、愛されること以上に”愛する”ことの大切さだったのではないだろうか。


東大新報