三国志漫話

適確な状況判断
敵将の心理を読み切る

曹操打倒の秘策を持っていた

 三国志にもっとも生々しく描かれた人物の一人は諸葛亮(孔明)である。
 孔明は三国時代の鬼材である。彼は劉備に仕える前に、天下の形成を良く分析できていた。それまで負け続けていた劉備に「鼎足」の策を献じた。それは有名な「隆中の対策」である。彼はこう言った。「曹操は天の時を得て、天子を押さえて北を統一している。それに匹敵することができない。孫権は親子三代にわたって江東を治め、長江の天険を持ち、それに匹敵することも出来ない。残りは荊州と益州であり、それを手に国を建てるのである」。
 その策は見事に的中し、後に劉備は益州と荊州の半分を手に入れ、蜀の国を建てられたのである。そして曹操を倒すにも、孔明には見事な策略があった。それは「東に孫権と連合し、北に曹操とにらみ合う」という策である。当時の劉備の力では曹操を倒すのは無理であると孔明は判断し、その”にらみ策”を取った訳である。そして「時になれば、荊州より大将を出し、洛陽をねらうと同時に、益州から別働隊を出し、長安より敵を牽制する」という勝利方程式があった。(実際はその「方程式」通りに実行されず、蜀も滅びていくのであった。「孔明の失敗」編で詳説する)。
 このように、孔明は劉備に仕える前に既に必勝の策を持っていたのである。そしてそれを実行するための、孔明にとって最大の見せ場が「舌戦群儒」であった。孫権と連合するにあたって、最大の困難はその部下の儒者達を説得することであった。孔明はうまく古今中外の例を挙げ、その連合を成功させたのである。

どんなに不利な状況も打開

 孔明の軍事才能は一流である。次回詳しく述べるが、古代戦争の勝敗はいくつかの要素によって決定される。兵士の数、兵糧軍資の充実さ、そして大将の采配である。孔明の采配は右に出るものが無い。その理由の一つは、彼がいつも敵将の心理を読み切っていたということである。
 彼にとって唯一の敗戦は街亭の戦いである。それ以外は、いくら不利な局面に置かれても、逆転に成功し続けた。典型的なのは博望坡から赤壁の戦いまで、劉備は数千の兵士しか持っていなかったのに、最終的に曹操を下し、南荊州を治めるに至ったことである。

孔明最大の業績は南蛮平定

 軍事家の孔明にとっての最大の勝利は三つある。南荊州で周瑜を破った戦い、益州で劉璋軍を破った戦い、そして南蛮平定の戦いである。
その数々の戦いの中で、もっとも歴史的な価値がある勝利は南蛮(今の中国雲南省)の平定である。その結果として漢民族と南蛮民族の紛争が治められ、互いに平和に暮らすことが出来るようになった。漢の時代では、南蛮など少数民族と漢民族の紛争が激しく、当時の生産力に大きく影響していた。孔明の南蛮平定戦の勝利によって、晋の中期まで南蛮との戦いが無かった。後に政治家としての孔明を記念するため、成都に武侯祠が建てられた。
孔明は文学家でもあり、数多くの著書が残されている。もっとも有名なのは「出師表」である。前、後二回の表文は皇帝(劉禅)に出した進言であるが、言葉づかいが華麗で、現代に至るまで文学作品として鑑賞されている。

         (つづく)