第772号(1999年5月5日号)

貧民と孤児への深い教育愛

 前号で、明治前期の日本教育思想に最も大きな影響を与えたのはペスタロッチである、と述べた。今回と次回にわたり、そのペスタロッチの教育思想を見ていきたい。 まず、今回は彼の生涯を振り返ってみる。


母の感化を受け、愛することを知る

 「世界の教育者」と言われるペスタロッチ(Pestalozzi)は1746年にスイスのチューリッヒで医師の子として生まれた。
 母はオーストリアの将軍の姪であった。ペスタロッチは六歳で父を失い、母と忠実な手伝い人によって育てられた。母は宗教的情操の豊かな人であり、その感化を受けてペスタロッチは人を愛することを知った。
 ドイツ語小学校、ラテン学校を経て、人文大学に学び、次いでカロリナ大学で言語学、哲学を学んだ。
 彼は幼い時から、近郊にいた牧師の祖父を訪れてその感化を受けた。そして、牧師になろうと思って神学を学んだが満足できず、これを捨てて法律学の研究に向かった。しかし、ルソーの『エミール』を読んで田園生活に感ずるところがあり、1768年ブルックに農場を作って、ノイホーフ(Neuhof)と名づけた。
 翌1769年に、彼はアンナ・シュルテスと結婚し、彼女が農場経営の良き協力者となったが、彼のノイホーフにおける7年間の農業生活は失敗に帰した。
 しかし、このノイホーフにおいて、1770年長男ヤコブが生まれると、その教育に大きな注意を払って育児日記を作った。その観察実験および実地教育は、児童研究・実験教育の先駆とも言えるものである。

貧民の救済者ペスタロッチ

 1774年、彼は農業から転じて紡績業を始めたが、この事業のために近所の貧民の子女を雇い、パンを与えるとともに、彼らを教育しようとし、1775年、50人の子女のために貧民学校を開いた。このノイホーフ時代、乞食のような生活をしていた児童に対する自らの教育を回顧して、「私は乞食を人間らしく生活せしめんがために50人の乞食の子どもの中にパンを分かちあいながら、私自身まったく乞食のような生活をした」と述べている。
 しかし、この紡績業も失敗した。貧児は、多くは怠惰であって、食に飽きれば逃げ去るというような状態であり、ついに閉鎖した。

文筆活動で教育思想示し有名に

 そこで彼は文筆活動を始めた。1780年から18年間、文筆の仕事に携わったのである。
 彼はまず1780年『隠者の夕暮』を出し、この書において彼の根本的教育思想を示した。
 ペスタロッチ研究の第一人者の長田新氏は、この著を「この書の前にも後にもこの書に比べることのできるほどの教育の予言書はない」「山上の垂訓でも想起させるほどの魅力に満ちている」と絶賛している。
 翌年に教育小説『リーンハルトとゲルトルート』を出版した。この教育小説は、ゲルトルートを主人公にして、スイスの農民生活を描いたものである。
 その内容はというと、ある村に石工のリーンハルトという夫がいた。彼は悪友に誘われて飲食にふけり、家を顧みない。その妻ゲルトルートは、自分の子に紡績、農芸などを一生懸命授け、また国語、算術などをも教えたが、他家の児童も来てその教えを受ける者が多くなった。そこで、ついに村の有力者は、民風を改めるためには何よりも教育が必要であると言い、学校を開いたという。
 ペスタロッチは、教育の原点は家庭にあり、家庭の中心は母にあると考えていたのだ。
 この書が出ると、社会の歓迎を受け、ペスタロッチの名が一躍有名になった。

80人の孤児の父共に泣き笑い生活

 1789年のフランス革命の影響をスイスも受けた。彼はその兵禍の最も大きなシュタンツ(Stanz)に単身赴き、孤児院の教育をした。寺院を借りて、80人の孤児を収容し、ただ一人の手で世話をしたのである。
 そのときの境地をこう語っている。「私は彼らと泣き、彼らと笑った。彼らは世界を忘れ、シュタンツを忘れた。彼らは私と共にあり、私は彼らと共にあった。彼らの食べ物は私の食べ物であり、彼らの飲み物は私の飲み物であった。私は何ものももたなかった。ただ彼らだけをもっていた。……私は彼らの真ん中で眠った。夜は一番あとで床に就き、朝は一番早く起きた。私は床の中で、彼らの眠るまでなお彼らと共に祈り、彼らを教え、彼らはそれを欲した」。
 彼は毎日、学科の教授をなし、その他はいろいろな作業に従事させた。彼は教授と作業とを結合し、直観教授を重んじ、書籍はいっさい使用させなかった。
 孤児の身体は「かいせん」に覆われ、衣服はノミやシラミにつかれ、性格もすさんでいたが、彼は彼らと共に起居し、飲食を共にした。
 しかし、やがてフランス兵が再びシュタンツを襲って、この孤児園を戦時病院としたため、彼はシュタンツを去った。
 このシュタンツの学校はわずか半年間続いたに過ぎなかったけれども、そこで発揮されたペスタロッチの教育熱は今なお教育の世界を貫き通すものがあると言える。

諸国の教育家が彼の学校を参観

 その後、彼はブルグドルフ(Burgdorf)の小学校の補助教師となった。しかし、その教え方がすばらしかったので、同僚の嫉妬を買った。そこで土地の空いている城で教員養成所を始めた。政府はこれを公認し援助した。
 彼は同時に市民学校、孤児園なども開いた。このころからブルグドルフは一時教育的実験の中心となり、各地から来て学ぶ者も多かった。
 1801年、ブルグドルフの経験を基礎に『ゲルトルートは如何にその子らを教えるか』を発表した。これは彼の多年の経験に基づいて、教育方法上に一転機を画したもので、彼の教育法を理解する上に最も適当なものと言われている。
 彼は1804年、ミュンヘンブクゼーの学校に移り、その翌年イヴェルドンに招聘されて学校を興し、20年間滞在した。
 この当時、教育に対する彼の情熱と気力はますます高まり、技術も円熟し、名声は絶頂に達した。そこで、諸国の貴族、学者、教育家たちは彼の学校を参観し、またその教授法を学ぼうとする者が跡を絶たなかった。
 しかし、1810年頃から校運も衰え、彼の夫人も1815年に死去し、また教師間の軋轢も収めることができなかった。
 1827年、ノイホーフに近いブルックにおいて、彼は81年の生涯を閉じた。

       (つづく)

《東大新報「こころの教育」取材班》

〈参考文献〉
唐沢富太郎編著『図説教育人物事典・上巻』ぎょうせい
ペスタロッチ著・長田新訳『隠者の夕暮、シュタンツだより』岩波文庫
福島政雄著『ペスタロッチ』